2020年、画期的な短編全集の刊行が開始されました。
『ソーンダイク博士短篇全集』全3巻(国書刊行会)。
私がこの年に最も読みたかった作品の一つです。
第Ⅰ巻には2つの短編集が収録されていますが、いずれもクイーンの定員に選ばれています。
この記事では、そのうちクイーンの定員No. 42『ジョン・ソーンダイクの事件記録』をご紹介します。
作品の詳細データ
クイーンの定員No. 42
John Thorndyke's Cases
『ジョン・ソーンダイクの事件記録』R・オースティン・フリーマン(英1909年)ーHQS
8編収録、全編邦訳。
活躍する探偵:ジョン・イヴリン・ソーンダイク博士
- The Man with the Nailed Shoes 「鋲底靴の男」
- The Stranger's Latchkey「よそ者の鍵」
- The Anthropologist at Large 「博識な人類学者」(「人類学講座」)
- The Blue Sequin 「青いスパンコール」
- The Moabite Cipher 「モアブ語の暗号」
- The Mandarin's Pearl 「清の高官の真珠」(「中国貴族の真珠」)
- The Aluminium Dagger 「アルミニウムの短剣」
- A Message from the Deep Sea 「深海からのメッセージ」
入手容易な邦訳
『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』渕上痩平 訳(国書刊行会)に、全編収録。
『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ』大久保康雄 訳(創元推理文庫)に、3編収録(ただし品切れ中)。
【電子書籍】全編、『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』【分冊版】上巻(国書刊行会)で読める。2020年現在、この電子書籍はAmazon Kindleでのみ販売。
3編は『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ』大久保康雄 訳(創元推理文庫)で読める。2020年現在、この電子書籍はebookjapan(Yahoo!ショッピング)でのみ販売。
クイーンの定員に3つの短編集が選ばれているフリーマン
まず、クイーンの定員No. 42をご紹介する前に、国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』について少し触れたいと思います。
この本にはソーンダイク博士が活躍する2つの短編集、ソーンダイク博士ものの第一短編集である『ジョン・ソーンダイクの事件記録』と第二短編集『歌う骨』が収められています。
前者はクイーンの定員No. 42、後者はクイーンの定員No. 52にそれぞれ選ばれています。
『歌う骨』については、改めてご紹介したいと思います。
作者のR・オースティン・フリーマンは、この他に「クリフォード・アッシュダウン」という別名義(刑務所医であるジョン・ジェームズ・ピトケアンとの共同執筆)で、快盗紳士ロムニー・プリングルが活躍する短編集"The Adventures of Romney Pringle"を記しています。これはクイーンの定員No. 30に選ばれています。
クイーンの定員に選ばれている短編集は125冊ありますが、そのうち3冊にフリーマンが関わっていることに。
2冊に関わっている方は数人いますが、3冊はフリーマンだけではないでしょうか。
また、そのうちの2冊にてソーンダイク博士という同一人物が活躍するのも、フリーマンの卓越した技だと思われます。
ソーンダイク博士:あらゆる時代を通じて最高の法医学探偵
それでは、本題の短編集『ジョン・ソーンダイクの事件記録』について。
この短編集の「まえがき」で、フリーマンは法医学の手法を推理小説に採り入れ、科学的捜査の重要性を説いています。
エラリー・クイーンは「黄金の二十」(江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集5』(創元推理文庫)に収録)にて、1920年までにおける「最も重要な短編推理小説十」の一つに本短編集を選んでおり、
ユーモアには乏しいが、法医学に関しては全能のエキスパート、あの輝かしいソーンダイク博士は、推理文学における、最初の真に科学的な探偵であり、その天才は、いまだに抜く者がありません。
「黄金の二十」エラリー・クイーン、小西宏 訳
と称賛しています。
もちろん、法医学の飛躍的進歩により、フリーマン自身の活用した手法は既に時代遅れになった面はありますが、むしろそれにより身近で親しみやすくなった面もあるでしょう。
日本では初めて一冊にまとまった『ジョン・ソーンダイクの事件記録』
そんな短編集『ジョン・ソーンダイクの事件記録』ですが、実は収録短編が一冊にまとまったのは、今回の『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』が初めてです。
少し長めの短編「鋲底靴の男」は、戦前に「謎の靴跡」というタイトルで翻訳されて以来の翻訳です。
戦前に「海濱の足跡」という、似たようなタイトルの翻訳がありますが、これは短編集『パズル・ロック』に収録の「砂丘の謎」(「砂丘の秘密」)のこと。
「よそ者の鍵」は(商業誌では)本邦初訳です。
(参考サイト(名探偵たちの事件簿)によれば、翻訳道楽さんで訳されたことはあるようです。)
「博識な人類学者」は、巻末の解説にもあるように、ホームズ物語のある短編を思い出させます。
意外性では「青いスパンコール」。私はこれが一番好きかもしれません。
「モアブ語の暗号」も、実は…と、ひとひねり加えられているところが面白いです。
「清の高官の真珠」は、清の高官の亡霊のエピソードがやや冗長なのが欠点ですが、訳者の渕上さんのお気に入り作者でもあるヘレン・マクロイが書いていそうなプロットのように思えました。
密室物の「アルミニウムの短剣」は、カーター・ディクスンの某長編に影響を与えたと考えられているそうです。
「深海からのメッセージ」は、本短編集のラストを飾るにふさわしい作品でした。
初出誌の挿絵・図版・写真を収録した決定版全集
『ジョン・ソーンダイクの事件記録』を収めた『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』。
この全集には、これまで(英米両国でも)単行本収録時に割愛されがちだった、初出雑誌掲載時に挿入された写真、図版、挿絵が原則としてすべて収録されています。
特に興味深いのは顕微鏡写真。
神経細胞、髪の毛、綿埃(ほこり)、植物などのヴィジュアルな手がかり写真があることで、フリーマンの豊かなストーリー・テリングに花を添えています。
雑誌掲載時と単行本収録時の異同もきちんと記されています。
挿絵画家はヘンリー・マシュー・ブロック。単行本収録時に割愛された挿絵も、この全集には収められています。
(ただし、単行本が初出となった「鋲底靴の男」については、1921年の速記版収録の挿絵11枚が加えられています。画家は"G・F"というイニシャルのみで、誰かは不明。)
付録として、ソーンダイク博士の「探偵略歴」や、フリーマンによるソーンダイク博士の紹介文「ソーンダイク博士をご紹介」がついており、ワクワク感が止まりません。
電子書籍情報;Kindle版が出版されました
国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』は、Amazon Kindleにて電子書籍化されました。
上下巻の分冊版で、この記事でご紹介した『ジョン・ソーンダイクの事件記録』は上巻で全編読めます。
創元推理文庫の『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ、Ⅱ』(大久保康雄 訳)は、紙書籍では品切れ状態ですが、ebookjapan(Yahoo!ショッピング)にて電子書籍がそれぞれ販売中のようです。
「青いスパンコール」、「モアブ語の暗号」、「アルミニウムの短剣」が『ソーンダイク博士の事件簿Ⅰ』で読めます。
ソーンダイク博士が活躍する長編作品
ホームズのライヴァルであり、黄金時代の立役者
国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集』については、別の機会にまたご紹介したいと思いますが、では長編作品の翻訳状況はどうなっているでしょうか。
フリーマンは全部で21作のソーンダイク博士の長編を発表しましたが、そのデビューは1907年の『赤い拇指紋』。
『ジョン・ソーンダイクの事件記録』が出版されたのはその2年後ですが、当時はシャーロック・ホームズ物語でイギリス中が熱狂していた頃であり、ソーンダイク博士もホームズのライヴァルたちの代表格に挙げられます。
ソーンダイク博士物の最後の短編は1927年の「ポンティング氏のアリバイ」ですが、その後もソーンダイク博士は長編で活躍し、遺作は80歳の出版であった1942年の"The Jacob Street Mystery"。
フリーマンはアガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、フリーマン・W・クロフツ、H・C・ベイリーとともに、探偵小説の黄金時代(1920年〜1940年頃)における英国本格派"ビッグ5"の一人と目されます。
「ソーンダイク博士はホームズのライヴァルたちの一人である」と呼ぶことが、半分正しくて半分間違っていると言われるのは、
名探偵のカリスマ性に依存しない、公正なプロセスとロジック重視の謎解き小説を確立した黄金時代の立役者なのだから。
Modern Detective Storyの実験室(法月綸太郎)より抜粋
なお、法月綸太郎さんの「Modern Detective Storyの実験室」は、国書刊行会のホームページの『ソーンダイク博士短篇全集 第Ⅰ巻』にある「カタログダウンロード」でダウンロードできます。(書籍にもカタログが封入されています。)
電子書籍でソーンダイク博士物の本邦初訳長編を味わう
電子書籍で、紙書籍では出版されていないソーンダイク博士物の邦訳長編を読めます。(後述)
美籐志州さん(Twitter:@shizubito)は、この7〜8年で『冷たい死』、『内輪もめ』、『プラチナ物語』、『オリエンタリストの遺言書』と翻訳され、2020年にも『偽装を嫌った男』をAmazon Kindleで出版されました。
『オリエンタリストの遺言書』は、その後、別の翻訳者さんにより論創海外ミステリから『ニュー・イン三十一番の謎』というタイトルで出版されましたが、その他の邦訳作品は2020年現在、Kindleでしか読めません。
また、美籐さんは『私の探偵ソーンダイク』という無料の本を電子書籍で出版されています。
二つの短いエッセイと一つの短編が入っており、表題作「私の探偵ソーンダイク」は、先に挙げた国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』に収録されている付録「ソーンダイク博士をご紹介」。
他の収録作品も今では既に翻訳があったりしますが、何と言っても0円で読めますので、ソーンダイク博士やフリーマンに興味のある方は読んでみてはどうでしょうか。
また、こちらの記事でも少しご紹介した牟野素人さんは、本邦初訳の『もの言わぬ証人 前編』(*)や『ポルトン言行録 第一部』(**)をAmazon Kindleで翻訳出版されています。
『もの言わぬ証人 後編』については2021年3月に、『ポルトン言行録 第二部』については2022年5月に、それぞれ刊行されました。
(牟野さんのブログである「エミール・ガボリオ ライブラリ」を参考。)
長編一覧
原題 | 主な訳書 | |
1 | The Red Thumb Mark | 『赤い拇指紋』(吉野美恵子 訳、創元推理文庫) |
2 | The Eye of Osiris (1) | 『オシリスの眼』(渕上痩平 訳、ちくま文庫) |
3 | The Mystery of 31 New Inn | 『ニュー・イン三十一番の謎』(福森典子 訳、論創社) 『オリエンタリストの遺言書』(美籐志州 訳、Kindle) |
4 | A Silent Witness | 『もの言わぬ証人 前編』(*) 『もの言わぬ証人 後編』(牟野素人 訳、Kindle) |
5 | Helen Vardon's Confession | (未訳) |
6 | The Cat's Eye | 『キャッツ・アイ』(渕上痩平 訳、ちくま文庫) |
7 | The Mystery of Angelina Frood | 『アンジェリーナ・フルードの謎』(西川直子 訳、論創社) |
8 | The Shadow of the Wolf | 『偽装を嫌った男』(美籐志州 訳、Kindle) |
9 | The D'arblay Mystery | 『ダーブレイの秘密』(中桐雅夫 訳、ハヤカワ・ミステリ) |
10 | A Certain Dr. Thorndyke | (未訳) |
11 | As a Thief in the Night | 『証拠は眠る』(武藤崇恵 訳、原書房) |
12 | Mr. Pottermack's Oversight | 『ポッターマック氏の失策』(鬼頭玲子 訳、論創社) |
13 | Pontifex, Son and Thorndyke | (未訳) |
14 | When Rogues Fall Out | 『内輪もめ』(美籐志州 訳、Kindle) |
15 | Dr. Thorndyke Intervenes | 『プラチナ物語』(美籐志州 訳、Kindle) |
16 | For the Defence: Dr. Thorndyke | (未訳) |
17 | The Penrose Mystery | 『ペンローズ失踪事件』(美籐健哉 訳、長崎出版) |
18 | Felo de Se? | 『冷たい死』(美籐志州 訳、Kindle) |
19 | The Stoneware Monkey | 『猿の肖像』(青山万里子 訳、長崎出版) |
20 | Mr. Polton Explains | 『ポルトン言行録 第一部』(**) 『ポルトン言行録 第二部』(牟野素人 訳、Kindle) |
21 | The Jacob Street Mystery | (未訳) |
(1) 1999年に、現在一般に流布している版とは異なる初稿バージョンが"The Other Eyes of Osiris"として刊行された。
未訳作品もいくつかありますが、今から20年前はほとんどの作品が未訳、ないしは完訳されていなかったことを考えれば、ソーンダイク博士物の長編は確実に紹介されつつあると言っていいでしょう。
とは言え、(出版社が倒産したので)長崎出版の『ペンローズ失踪事件』、『猿の肖像』は絶版です。
また、デビュー作の『赤い拇指紋』も品切れ中なので、現時点で初めてソーンダイク博士物の長編を読むなら、『ソーンダイク博士短篇全集』も翻訳された渕上痩平さんが訳され、ロジックの緻密さが評価されている初期の代表作『オシリスの眼』がいいのかもしれません。
渕上さんのブログ「海外クラシック・ミステリ探訪記」には、フリーマンのベスト長編を論じた記事もございます。
終わりに
クイーンの定員No. 42『ジョン・ソーンダイクの事件記録』は、「あらゆる時代を通じて最も偉大な法医学者探偵」であるジョン・イヴリン・ソーンダイク博士が活躍する最初の短編集で、日本では国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ 歌う骨』により初めて一冊にまとめられました。
初出誌の挿絵・図版・写真も豊富で、ヴィジュアル型ミステリとしても楽しめます。
なお、この記事ではソーンダイク博士物の特長の一つである「倒叙推理小説」についての記載がありませんが、それについてはクイーンの定員No. 52『歌う骨』で触れたいと思います。 以前の記事で、国書刊行会の『ソーンダイク博士短篇全集:第1巻 歌う骨』に収録されている作品の前半部分に収録されている短編集(クイーンの定員No. 42『ジョン・ソーンダイクの事件記録』)をご紹介しまし ... 続きを見る
定員No. 52:倒叙ミステリの元祖『歌う骨』
この記事の参考文献・参考図書・参考サイト