2021年10月、長らく品切れだったH・C・ベイリー(ヘンリー・クリストファー・ベイリー)『フォーチュン氏の事件簿』が、東京創元社が開催している「創元推理文庫2021年復刊フェア」で復刊されました。
そして、今まで未紹介だったフォーチュン氏譚の長編が、この冬に初めて邦訳刊行されるという話もあります。
そんなレジナルド(レジー)・フォーチュンが初めて登場する短編集が『フォーチュン氏を呼べ』で、これはクイーンの定員にも選ばれています。
この記事では、『フォーチュン氏を呼べ』を中心に、その他の現在入手しやすいフォーチュン氏譚の短編についてもご紹介します。
作品の詳細データ
クイーンの定員No. 68
Call Mr. Fortune
『フォーチュン氏を呼べ』H・C・ベイリー(英1920年)ーHQR
6編収録、全編邦訳。
活躍する探偵:レジナルド(レジー)・フォーチュン
- The Archduke's Tea 「大公殿下の紅茶」
- The Sleeping Companion 「付き人は眠っていた」
- The Nice Girl 「気立てのいい娘」
- The Efficient Assassin 「ある賭け」
- The Hottentot Venus 「ホッテントット・ヴィーナス」
- The Business Minister 「几帳面な殺人」
入手容易な邦訳
『フォーチュン氏を呼べ』文月なな 訳(論創社)に、全編収録。
【電子書籍】なし。
『フォーチュン氏を呼べ』はフォーチュン氏譚の第1短編集
父親の代わりに赴いた往診先で事件に巻き込まれるのが、レジー・フォーチュンの最初の事件「大公殿下の紅茶」です。
それを収めた第1短編集の刊行は1920年。
いわゆる「探偵小説の黄金時代」が始まろうとしているころであり、実際のところフォーチュン氏は黄金時代の名探偵と見なされています。
この短編集では、そんなフォーチュン氏の若かりし姿と名推理を堪能できます。
ところで、フォーチュン氏は事実と証拠を重視する探偵法の信奉者ではありますが、実際には多くの評者から、ブラウン神父に通じる直感派の探偵と位置づけられているようです。
そんなフォーチュン氏譚の特質は、徐々に明確化していって、1935年刊の第9短編集"Mr. Fortune Objects"で頂点に達した、とみるのがエラリー・クイーンほかの一致した見解のようで、クイーンは後述する「黄色いなめくじ」The Yellow Slugsや、「豪華な晩餐」The Long Dinnerの2編が収録されている、この第9短編集を彼の最高作品集とみなしているようです。
「クイーンの定員」は概して第1短編集が選ばれる傾向があるのは、以前にも触れました。
フォーチュン氏はシャーロック・ホームズのライヴァル?
ここで、『フォーチュン氏を呼べ』所収の各短編を紹介する前に、表題の件について検討しておきましょう。
『フォーチュン氏を呼べ』の翻訳は、論創海外ミステリの〈ホームズのライヴァルたち〉シリーズの第2弾として、2006年に刊行されました。
また、フォーチュン氏譚の傑作選である、創元推理文庫の『フォーチュン氏の事件簿』は、1977年から刊行された《シャーロック・ホームズのライヴァルたち》シリーズの中の1冊です。
これについては、創元推理文庫の《シャーロック・ホームズのライヴァルたち》シリーズの出版にも深く携わった編集者の戸川安宣さんが、『フォーチュン氏を呼べ』の巻末にて詳しく解説されています。
『フォーチュン氏を呼べ』が刊行された1920年は、アガサ・クリスティーが『スタイルズ荘の怪事件』で、F・W・クロフツが『樽』でデビューした年です。
(だから、2020年は刊行100周年だったのです!)
いわゆる「探偵小説の黄金時代」が幕開けた年であり、作者のベイリーはクリスティー、クロフツらと並んでイギリス推理文壇のビッグ・ファイヴと言われた存在でした。
(後の2人は、ソーンダイク博士シリーズを記したオースティン・フリーマンと、ピーター・ウィムジイ卿シリーズを記したドロシー・L・セイヤーズ。)
ところが、ベイリーは近年、本国イギリスでもあまり読まれていないようで、日本でも世界推理短編傑作集に収録されている「黄色いなめくじ」など一部の作品しかアンソロジーに取り上げられていない……ということで、
この機を逃すと、なかなか紹介のタイミングは訪れないかもしれない、と思える作家、ならびに名探偵を、この魅力的なシリーズ名の下、紹介してしまおう、と考えたのだ
「創元推理文庫《シャーロック・ホームズのライヴァルたち》の成り立ち」戸川安宣(Re-ClaM Vol.6)
創元推理文庫の《シャーロック・ホームズのライヴァルたち》シリーズに、セイヤーズのウィムジイ卿やマイケル・イネスのアプルビイが入っていたのも、そのためでした。
『フォーチュン氏を呼べ』は最初に読むべきではない?
フォーチュン氏譚の代表作「黄色いなめくじ」の印象は?
ただ、つい最近まで創元推理文庫の『フォーチュン氏の事件簿』は品切れだったこともあり、『フォーチュン氏を呼べ』を除けば、日本でもベイリーの作品で簡単に読めるのは、創元推理文庫『世界推理短編傑作集4』に収録されている「黄色いなめくじ」くらいでした。
「黄色いなめくじ」は、【新版】の『世界推理短編傑作集』では第4巻に収録されていますが、旧版の『世界短編傑作集』では第5巻に収録されています。
なるほど、「黄色いなめくじ」は確かに佳作で、国書刊行会の『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』にも記されているように、フォーチュン氏は、
温かみのある人柄の持ち主であり、ことに子供たちに注ぐまなざしは優しさにあふれている。
ただ、私の場合、「黄色いなめくじ」の初読時では、フォーチュン氏譚の魅力がいまいち感じられず、その他の作品は『フォーチュン氏を呼べ』も含めて積読状態になっていました。
そんな私がフォーチュン氏に興味を持つきっかけとなったのは、同人評論誌Re-ClaMの別冊、Re-ClaM eX Vol.2でした。
デビュー100周年に刊行された、ベイリーの短編を収めた同人誌
この別冊ではフォーチュン氏が活躍する短編が2編掲載されていて、そのうち「家具付きコテージ」The Furnished Cottageは、「翻訳道楽」という同人誌を一人で刊行されている宮澤洋司さん(ハンドルネーム:米丸さん)が翻訳されたもの。(第3短編集"Mr. Fortune's Trials"所収。)
フォーチュン氏がピンチに陥る作品ですが、最後まで読むと、事件の真相になんともやり切れない思いを抱きました。
「雪玉泥棒」The Snowball Burglary(Re-ClaMを発行されている三門優祐さんの翻訳;第2短編集"Mr. Fortune's Practice"所収)も「犯罪とは呼ぶにはほど遠い、事件未満の事件」ですが、「あらゆるものを飲み込んでどんどん大きくなる」雪玉のように膨らむ事件の行き着く先は、なんとも物悲しいです。
なお、エドワード・D・ホック『楽園の蛇』(宇佐美崇之 訳;サイモン・アーク物)も収録したRe-ClaM eX Vol.2は、2021年11現在、書肆盛林堂でまだ販売されていますが、ちょうど1年前に刊行されていますので、いつ売り切れになってもおかしくないです。
ご興味のある方はお早めに。
もし、Re-ClaM eX Vol.2を逃した方は……。
「翻訳道楽」の再開と「ベイリー回路」
先にご紹介した米丸さんの「翻訳道楽」ですが、ここ数年は新しいラインナップも追加されておらず、ブログも休止状態でした。
しかしながら、既刊の通販については受け付けていることがRe-ClaM eX Vol.2にも記されており、この別冊が契機になったのか、今年になって「翻訳道楽」の活動も再開され、新作(サイモン・アーク物)も発売されました。
H・C・ベイリー集(#002〜#006)についても、もちろん通販されています。
(900円+送料。単品でも購入でき、一作150円〜200円+送料。)
「翻訳道楽」H・C・ベイリー集
- #002 「家具付きコテージ」The Furnished Cottage(第3短編集"Mr. Fortune's Trials"所収)
※)Re-ClaM eX Vol.2に再録。 - #003 「隠者蟹」The Hermit Crab(第3短編集"Mr. Fortune's Trials"所収)
- #004 「ライオン・パーティ」The Lion Party(第4短編集"Mr. Fortune, Please"所収)
- #005 「おとなしい女」The Quiet Lady(第4短編集"Mr. Fortune, Please"所収)
※)ハヤカワミステリマガジン2015年2月号(第60巻第2号)に再録。 - #006 「壊れたヒキガエル」The Broken Toad(第9短編集"Mr. Fortune Objects"所収)
また、米丸さんのブログ記事にある、ベイリーについての解説が興味深いです。
「家具付きコテージ」を米丸さんが読まれたときに形成された「ベイリー回路」が私にもできているのかどうかはさておき、若いときにベイリーの諸作を読んで「ふーーん」という感想を抱かれた皆様も、年を重ねてから改めて読み返してみると、また感想が変わってくるかもしれません。
実際、私も改めて世界推理短編傑作集で「黄色いなめくじ」を読み直して、その背景にある"Evil"、悪意の切れ味にゾクッとしました。
米丸さんがこうおっしゃっています。
ベイリーは「人間はどれだけ酷い事ができるのか」をテーマで書き続けた作家なのだと。
改めて『フォーチュン氏を呼べ』を読む
人間の悪意を描いた探偵小説の萌芽
いくつかの作品を読んでから、改めて第1短編集『フォーチュン氏を呼べ』を読むと、デビュー作の「大公殿下の紅茶」は米丸さん曰く、
「最初からこれかよっ」てちょっと感心する、っていうかちょっとあきれますねw
な作品です。私はビックリしました。
レジー・フォーチュンって、こういう人なんだ(汗)
「付き人は眠っていた」は、読者にとっては少々アンフェアですが、意外な真相です。
「気立てのいい娘」は、ラストでなんとも言えない気持ちになる、フォーチュン氏譚らしさが出た作品。
「ある賭け」は、原題はThe Efficient Assassin 、つまり「有能な暗殺者」です。この作品でも、「フォーチュン氏って、こういう人なんだ(汗)」と思うことでしょう。
「ホッテントット・ヴィーナス」は、フォーチュン氏が××する作品。
「几帳面な殺人」は少々長めの中編。ベイリーらしい悪魔的な犯人が印象的です。また、後にフォーチュンの奥さんとなるミス・ジョーン・アンバーの初登場作品です。
多くの作品で、ロンドン警視庁の犯罪捜査部(CID)ローマス部長やその部下のベル警視が登場し、彼らとの掛け合いも面白いです。
『フォーチュン氏を呼べ』を読み終わったら
第1短編集の『フォーチュン氏を呼べ』を読み終わったら、改めて作品発表順にフォーチュン氏譚を読んでいくのがいいかな、と思いました。
例えば、創元推理文庫の『フォーチュン氏の事件簿』の最初に収録されている「知られざる殺人者」The Unknown Murderer(第2短編集"Mr. Fortune's Practice"所収)は、フォーチュン氏譚の傑作の一つと言われていますが、この作品ではジョーン・アンバーと婚約しています。
そして、「翻訳道楽」が刊行している「隠者蟹」(第3短編集"Mr. Fortune's Trials"所収)では、フォーチュン夫人が登場します。
『フォーチュン氏の事件簿』も「翻訳道楽」も作品発表順に収録されており、どの作品がどの短編集に収録されているか記載されていますので、短編集の発表順に作品を読んでいけば面白いと思います。
お知らせ:待望の長編が2022年冬に刊行
論創海外ミステリから、フォーチュン氏譚の傑作長編と言われている『ブラックランド、ホワイトランド』"Black Land, White Land"が、2022年の冬に刊行されました!
終わりに
クイーンの定員No. 68『フォーチュン氏を呼べ』は、「探偵小説の黄金時代」1920年代〜30年代におけるイギリス推理文壇のビッグ・ファイヴと称された、H・C・ベイリーが生み出した探偵レジナルド(レジー)・フォーチュンがデビューした第1短編集。
「人間はどれだけ酷い事ができるのか」を描いてきたベイリー作品の萌芽が、この短編集でも垣間見られます。
若いころにこの短編集を読んで、それほど大した印象を抱かなかった方も、創元推理文庫の『フォーチュン氏の事件簿』の復刊や「翻訳道楽」の活動再開を機会にフォーチュン氏譚のいくつかに触れてみて、「おっ!」と思われた方は、改めて『フォーチュン氏を呼べ』を読めば、新たな発見があるかもしれません。
この記事の参考文献・参考図書・参考サイト
- 戸川安宣, [特別寄稿]「創元推理文庫《シャーロック・ホームズのライヴァルたち》の成り立ち, 『Re-ClaM Vol.6』2021年5月16日刊行(Re-ClaM事務局)p.7〜p.11