以前の記事で「探偵小説の父」をご紹介しました。
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定員No. 1:「探偵小説の父」が紡ぐ12の『物語』とミステリー
今回の記事は、本格ミステリの生みの親であり、「探偵小説の父」、「推理小説の父」とも呼ばれるエドガー・アラン・ポーの短編集を取り上げます。(なお、「探偵小説の母」については、こちらの記事をご参照ください ...
では、「探偵小説の母」、「推理小説の母」は誰になるかと言えば、1878年に発表された処女長編『リーヴェンワース事件』が出世作となったアメリカの作家アンナ・キャサリン・グリーン(A・K・グリーン)が、しばしばそう呼ばれています。
世界で最初の、女性が書いた探偵小説は『リーヴェンワース事件』以前にも出版されていますが、『リーヴェンワース事件』は累計100万部以上売れ、少なくともアメリカのミステリ界においては、グリーンはエドガー・アラン・ポーとその後の作家たちをつなぐ重要な存在だからです。
そんな彼女の手による、1912年(そして、ドッド、ミード社から出版されたのが「1913年」)の短編集が「クイーンの定員」に選ばれています。日本では一部の短編が読めるので、この記事ではそれらをご紹介します。
併せて、女性探偵バイオレット・ストレンジが活躍する短編もご紹介します。
作品の詳細データ
クイーンの定員No. 54
Masterpieces of Mystery
アンナ・キャサリン・グリーン(米1913年)ーHS
9編収録、5編邦訳。
活躍する探偵:エベニーザー・グライス(1編)
- Midnight in Beauchamp Row 「深夜、ビーチャム通りにて」
- Room No.3
- The Ruby and the Caldron
- The Little Steel Coils [前題:A Difficult Problem]
- The Staircase at Heart's Delight 「ハートデライト館の階段——グライス氏は語る」
- The Amethyst Box
- The Gray Lady [前題:The Gray Madam] 「灰色婦人の影」
- The Thief「古代金貨」(「メダルの紛失」)
- The House in the Mist「霧の中の館」
入手容易な邦訳
『霧の中の館』波多野健 編(論創社)に、3編収録。
『死の濃霧[延原謙翻訳セレクション]』中西裕 編(論創社)に、1編収録。
【電子書籍】なし。
霧の中の館 (論創海外ミステリ) 論創社
死の濃霧 延原謙翻訳セレクション (論創海外ミステリ) 論創社
世界推理短編傑作集1【新版】 (創元推理文庫) 東京創元社
『リーヴェンワース事件』に登場するグライス警部が…
"Masterpieces of Mystery"——邦訳すれば『ミステリーの最高傑作集』という題名の短編集ですが、この本自体の完訳本はありません。
2014年に、日本独自編纂の以下の短編集が出版されており、"Masterpieces of Mystery"に収録されている短編のうち、「深夜、ビーチャム通りにて」、「霧の中の館」(以上、梶本ルミ 訳)、「ハートデライト館の階段」(波多野健 訳)を読むことができます。
『霧の中の館』波多野健 編(論創社)
そのうち、「ハートデライト館の階段」は邦題の副題に「グライス氏は語る」とありますが、このグライス氏は『リーヴェンワース事件』に登場するニューヨーク市警のエベニーザー・グライス警部のことです。
…と言っても、2019年の時点で『リーヴェンワース事件』の邦訳を読むのは容易ではないので、グライス警部と言ってもピンときません。。。
創元推理文庫『世界推理短編傑作集1』(江戸川乱歩 編)に、アンナ・キャサリン・グリーンの1895年の短編である'The Doctor, His Wife and the Clock'、「医師とその妻と時計」(井上一夫 訳)が収録されていますが、この短編は70歳のエベニーザー・グライスが30歳の時に起こった事件を回想したものです。
同様に、1894年初出の「ハートデライト館の階段」は警察界で功なり名をとげた老刑事グライスが、自身の最初の事件(19歳か20歳)を振り返ったもの。
『霧の中の館』の解説に、グライスは「グリーン作品の中で最も読者に親しまれた登場人物」とあるのですが、これら2作品だけでは、残念ながらエベニーザー・グライスの魅力は伝わってこなかったです。
エベニーザー・グライスは主に長編(12作品)で活躍した刑事なので、その代表作である『リーヴェンワース事件』(ちなみに、グライス55歳頃の事件らしい)を読んでみたいものです。
「深夜、ビーチャム通りにて」は初出が1895年で、クリスマス・イブに新婚の女性を襲った事件が描かれており、インパクトのあるサスペンスの佳作。
表題作の「霧の中の館」は1905年に刊行された不気味な中編。館にさみだれ式に人が集まるのですが、そこで思いも掛けない展開が待ち構えています…
「古代金貨」はシャーロック・ホームズ物語の最初の個人訳全集で有名な延原謙さんによる、 1933年の翻訳です。2020年に論創海外ミステリから、
『死の濃霧[延原謙翻訳セレクション]』延原謙 訳、中西裕 編(論創社)
が出版され、容易に読めるようになりました。
パーティで客の手から手へ渡されていくうちに行方不明になり、身体検査が提案されますが…。ほろりとさせられる物語です。
クイーンは幼少期に収録短編を楽しんだのかも
『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会)によれば、クイーン(フレデリック・ダネイ)は幼少時に、フランシス・J・レノルズ編の1915年の短編アンソロジー『ミステリ傑作集』(未訳)によって、アンナ・キャサリン・グリーンらを知ったと記されています。
このアンソロジーの目次を調べてみると(→参考文献)、グリーンの短編は6作品、'Room No.3'、「灰色婦人の影」、「古代金貨」、「深夜、ビーチャム通りにて」、'The Little Steel Coils'、「ハートデライト館の階段」が収録されていることが確認できます。
これら6編をすべて含むグリーンの短編集は"Masterpieces of Mystery"と、1919年に刊行された"Room No.3: And Other Detective Stories"(収録作品は"Masterpieces of Mystery"と全く同一)だけなので、クイーンは自身の幼少期の体験も踏まえて、"Masterpieces of Mystery"を「クイーンの定員」に選んだ可能性は大いにありそうです。
『ミステリーの最高傑作集』にバイオレットは登場しない
ところで、光文社文庫『クイーンの定員Ⅱ 傑作短編で読むミステリー史』(エラリー・クイーン・各務三郎 編)の、#54『ミステリーの最高傑作集』の解説に、
(前略)…クイーンは、優雅で明るく、<女性らしい高潔な魂が光輝く> 女探偵ヴァイオレット・ストレンジが登場する、晩年の活動期に発表された同短編集(九編)を里程標に選んだ(収録作品中の四編は、グライス警官その他の探偵が登場する短編集 A Difficult Problem <1900>に既載)。同シリーズにThe Golden Slipper and Other Stories (1915) がある。
とあるのですが、これは何かの勘違いでしょう。
というのも、"Masterpieces of Mystery"にはバイオレット・ストレンジ物は一編も収録されていないからです。
"Masterpieces of Mystery"収録作品中の4編、つまり、'A Difficult Problem [改題:The Little Steel Coils]'、「灰色婦人の影」、「深夜、ビーチャム通りにて」、「ハートデライト館の階段」は、確かに1900年刊行の短編集"A Difficult Problem: The Staircase at the Heart's Delight and Other Stories"に収録されています。
(なお、「ハートデライト館の階段」はこの1900年版と、1912年の"Masterpieces of Mystery"版とでは改訂の差が大きく、『霧の中の館』では1900年版に拠っているとのこと。)
そして、1915年刊行の短編集"The Golden Slipper: And Other Problems for Violet Strange"は確かにバイオレット・ストレンジ物の短編集(なお、これも9編収録)です。
『霧の中の館』の解説では、この光文社文庫の解説を一部引用して(「優雅で明るく、…(中略)…同短編集(九編)」)、エラリー・クイーンが「クイーンの定員」には"Masterpieces of Mystery"を選んでいるが、バイオレット・ストレンジ物の短編集も高く評価していた、と読める部分がありますが、これも勘違いでしょう。
(ただ、クイーンがバイオレット・ストレンジ物も評価していた可能性は否定できません。)
クイーンが評価したかどうかはさておき、ヴァン・ダインは評価していた『黄金のスリッパー』、すなわちバイオレット・ストレンジ物が収められた1915年の短編集の詳細データも確認してみましょう。
バイオレット・ストレンジ物の短編集の詳細データ
Violet Strange
The Golden Slipper: And Other Problems of Violet Strange
アンナ・キャサリン・グリーン(米1915年)
9編収録、4編邦訳。
活躍する探偵:バイオレット・ストレンジ
- The Golden Slipper
- The Second Bullet 「第二の銃弾」(「弾丸の行方」)
- The Intangible Clue
- The Grotto Spectre
- The Dreaming Lady
- The House of Clocks
- The Doctor, His Wife and the Clock「医師とその妻と時計」[リライト版]
- Missing: Page Thirteen 「消え失せたページ13」
- Violet's Own 「バイオレット自身の事件」
入手容易な邦訳
『霧の中の館』波多野健 編(論創社)に、2編収録。
【電子書籍】なし。
『霧の中の館』には「消え失せたページ13」と「バイオレット自身の事件」(以上、波多野健 訳)が収められています。
その「消え失せたページ13」の冒頭で、バイオレットが、
それに、私、ザブリスキーさんの惨劇を忘れたことはないわ。あの悲劇がいつまでも私につきまとっているの。
と話すシーンがありますが、「ザブリスキーさんの惨劇」とは「医師とその妻と時計」事件のことです。先にご紹介した1895年版は探偵役がエベニーザー・グライスでしたが、それをバイオレット・ストレンジに置き換えて書き直したのです。
このリライト版の「医師とその妻と時計」の邦訳もあるにはあるのですが(早川節夫 訳)、現在では容易に読むことは難しいです。
ただ、「消え失せたページ13」の冒頭で「医師とその妻と時計」の結末のネタバレが少し行われているので、気になる方は先に1895年版の「医師とその妻と時計」、つまり創元推理文庫『世界推理短編傑作集1』に収められている翻訳を読んでおけばいいかと思います。
ただ、エベニーザー・グライス版とバイオレット・ストレンジ版では、結末こそ同じですが、探偵役の捜査活動の内容もストーリーも変わっているとのこと。
「消え失せたページ13」は、そのタイトルから「盗まれた手紙」系の作品のように思えますが、実は<館物>だったという、なかなか読ませる作品です。
「バイオレット自身の事件」は犯罪とは関係なく、なぜ令嬢バイオレットがお金のために探偵稼業を始めたのかという経緯が記されています。それは、彼女の姉の物語でもあったのです。
なお、「第二の銃弾」はハヤカワ・ミステリ文庫『シャーロック・ホームズのライヴァルたち③』(押川曠 編、秋津知子 訳)というアンソロジーに収録されており、私はたまたまそれを持っていたので読めました。第二の銃弾がどこへ…という真相はちょっとあり得ないような気もしますが、面白い作品です。
バイオレット・ストレンジは作者グリーンの政治的主張と正反対の言動をするようですが、そのあたりは『霧の中の館』の編者解説をご参照ください。
終わりに;参考文献
クイーンの定員No. 54"Masterpieces of Mystery"は、その完訳本はありません。いくつかの作品は論創海外ミステリ113『霧の中の館』(論創社)で読めます。
『霧の中の館』には、お嬢様探偵バイオレット・ストレンジが活躍する作品も収められています。この記事では、それが収録されているオリジナルの短編集についても触れました。
この記事の参考文献・参考図書・参考サイト
Room Number 3, and Other Detective Stories by Anna Katharine Green | Project Gutenberg
Catalog Record: Master tales of Mystery | HathiTrust Digital Library